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新潟地方裁判所長岡支部 昭和36年(わ)143号 判決

被告人 宮川基

昭八・一・三生 建設業

主文

被告人を懲役五年に処する。

未決勾留日数中六〇日を右刑に算入する。

訴訟費用は全部被告人の負担とする。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は昭和三五年六月頃から肩書住居において建設業を営み自動車の運転免許を得て自ら運転に従事していたものであるが、昭和三六年一一月一七日午後四時三〇分頃から自家用の小型四輪貨物自動車(新四な〇四七七号)を運転して数軒の飲食店を飲み廻り、同日午後九時頃、新潟県長岡市殿町二丁目四六四番地の一山沢屋旅館前十字路を同町三丁目方面から同町一丁目方面へ向けてかなり酩酊した状態で運転し、時速二五ないし三〇粁で進行していたところ、同所交叉点中央部附近において、折柄、長男重明(当時生後一〇月)を背負い、夫守一と並んで歩行していた長部美代子(当時二四年)に自動車の前部を衝突させ、同女及び重明を自動車の前部下方に引掛けて引摺り、徐々に減速しながら左に旋回し約一六ないし一七米進行して殆んど停車しそうになつたのであるが、目撃者の怒声等から事故がかなり重大なものであると推測して事故現場からの逃走を企てた。そして、自動車が再び加速進行状態に入つた直後頃、左側の扉が開き自動車の前部下方から女性の呻声が聞え、更に運転操作に異常なものを知覚し、車体の下に何物かを引掛けているような感じを受け、又夫守一が左側の扉に掴つて「停めろ、停めろ」と叫んでいること等から、ことによると同女が車体の下に引掛つているかも知れず、このような状態で同女を引掛けて進行すれば或は同女を死に到らしめるかも知れないと認識したのであるが、半ば恐怖の念にかられたことも手伝つて唯一途に現場から逃走しようとの考えを起し、自己が逃走するためにはたとえ同女を死亡させることがあつても止むを得ないと即座にこれを認容し、敢えて時速約三〇粁に加速して進行し、その間夫守一が再三停車を命じているのに拘らず、そのまま同市柏町一丁目一七番地金井助一郎方前まで約三〇〇米の間同女及び重明を車体の下に引掛けて道路上を引摺り、その間において同女を頭部外傷に基く脳震盪により、重明を頭部外傷に基く脳挫傷により、いずれも殺害したものである。

(証拠の標目)(略)

(心神耗弱の主張に対する判断)

弁護人は、被告人は本件犯行当時飲酒酩酊のため心神耗弱の状態にあつた旨主張するので以下検討する。被告人の司法警察員に対する昭和三六年一一月一八日附供述調書、検察官事務取扱副検事に対する同年一二月五日附供述調書及び第二回公判調書中証人若林春夫の供述部分を総合すると、被告人は本件犯行当日午後四時三〇分頃ビール約四本、午後五時三〇分頃ビール約一本、午後六時過頃ビール約一本、その後ビール一本ないし三本を飲んでおり、平素の飲酒量(空腹時はコツプ二、三杯の清酒で丁度よい気持になり、何か食べた後であれば清酒約五合で朗らかになる程度)に比較して考えると、本件犯行が飲酒後やや時間の経過した午後九時頃であつたとしても、当時かなり酩酊した状態にあつたことは容易に推認することができる。然し、被告人は数軒の飲食店を自ら自動車を運転して廻つており、前掲各自供調書にも本件犯行当時の事情を逐一詳細に述べており、又当公判廷においても本件犯行の客観的な側面についてはかなり明確な供述をなし、その間において被告人の本件犯行時における判断能力の減弱を疑わしめるような矛盾した供述は見当らない。以上の事実及びその他当公判廷において取調べた全証拠によつて認められる諸事情を総合勘案するも、被告人が本件犯行当時事物に対する是非善悪の判断能力及びこれに従つて行動する能力が著しく減退した状態にあつたと認めることはできない。従つて、弁護人の右主張は理由がないからこれを採用しない。

(殺意を認定した理由)

一、本件自動車が一旦停車しそうになり、被告人が現場からの逃走を企てて加速進行をはじめた直後頃、被害者美代子の悲鳴或は呻声が聞え、被告人もこれを聞いたことは第二回公判調書中証人酒井信行の「引摺られて行く途中私の店(キヤバレー・ナポリ)の前辺りから橋のたもと辺りまで悲鳴が聞えていた」旨、第四回公判調書中証人永井真一の「自動車が左に曲つて急に速度をあげたとき、腹の底から搾出すような悲鳴が聞え、それからずつと聞えていた」旨の各供述部分及び被告人の司法警察員に対する昭和三六年一一月二一日附供述調書中「横断歩道の少し先で、車の速度が落ちて扉が開き、車の前部下のエンジンの方からたいして大きな声ではなかつたように思うが、唸るような叫ぶような女の声が聞えた」旨、同じく検察官事務取扱副検事に対する同月二四日附供述調書中「停りそうになつた時、運転台の左側助手席側の扉が開き、私の乗つていた運転席から言うと前方の車の下あたりから女の声で唸るような叫ぶような声が聞えてきた」旨、同じく同月三〇日附供述調書中「左助手席の扉があいたとたん車の下の方から唸るような叫ぶような女の悲鳴が聞えてきた」旨の各供述記載によつて明らかであり、加速進行のためエンジンの音が響いていたとしても、被告人の座つていた直ぐ下の個所で、被害者が呻声をあげていたのであるから、扉を開いた状態において被告人が容易にこれを聞き得たであろうことは経験則に照らしてみても疑いのないところである。

次に、被告人が加速進行して直進状態に入つた直後頃、自動車の運転操作に異常なものを知覚し、車体の下に何物かを引掛けていることを感知したことに被告人の司法警察員に対する昭和三六年一一月一九日附供述調書中「アクセルをだいぶふかしながら進行しはじめたが、車がどうしたことかさつぱり速度が出なかつた。その時は丁度工事場等で運転していて筵とか板とかを引掛けたり挾んだりした時の感じで普通のアクセルがふかせないのとは一寸違つた感じがした」旨、同じく検察官事務取扱副検事に対する同月二〇日附、同月二四日附、同月三〇日附各供述調書中「アクセルをふかしても普通より加速せず、非常に車が重い感じがした」旨の各供述記載及び第二回公判調書中証人酒井信行の「エンジンは唸つていたが速度は出ていなかつた」旨の供述部分ならびに鑑定人下田茂、同鈴木秀雄作成の鑑定書によつて明らかである。

なお、右鑑定書の採証については、かなり検討を要する個所があるのでこの点について附言する。右鑑定は自動車の前車軸に被害者美代子の腰部を引掛けて引摺つた場合の走行抵抗を測定しているものであるが、司法警察員作成の昭和三六年一一月一九日附実況見分調書添付写真第八号(前記認定の金井助一郎方前道路上における本件犯行直後の被害者等の状態と認められる)によると、被害者美代子の上腕部附近を引掛けた状態になつており、この状態で引摺つた場合は腰部を引掛けて引摺つた場合に比して走行抵抗はかなり減少することが鑑定書自体から窺われる。然し医師山内峻呉作成の鑑定書(長部美代子)添付写真一二には被害者美代子が路面を引摺られた側とは反対の右大腿外側に縞状表皮剥脱があり、これはこの部分がフロントアクスルないし前車軸に引掛けられてできた傷であると推認される。鑑定書によると直進状態に入つて約二〇米の間エンジンはノツキングを起しながら走行していたのであるから、この区間は被害者の腰部を引掛けた状態即ち走行抵抗の大きい状態で進行していたと推論しているが、エンジンがノツキングを起しながら走行していたと言う証拠は何処にもない(鑑定書には証人酒井信行の証言による旨記載されているが、同証人はこのような証言をしていない)。然し、本件自動車の前部にあるフロントアクスルと路面との間は約二〇糎であり、被害者美代子の腰部が先づこのフロントアクスルないしその後に接している前車軸に引掛つたであろうことは前記のとおりであり、しかも自動車は衝突後カーブを切りながら次第に減速して一六ないし一七米進行し、殆んど停車しそうになつて再び加速進行したものであるから、約二〇糎の間に挾まれた被害者美代子の腰部がフロントアクスルないし前車軸から後方に抜出るまでには、自動車が直進状態に入つて後かなりの距離を走行したものと考えるのが相当である。右のとおり走行抵抗測定の前提事項について疑いはなく、その他前提となつた資料はいずれも妥当なものであり、従つて右鑑定の証明力に格別の欠損があるわけではない。

以上のとおり被告人は自動車が加速進行し直進状態に入つた直後頃、被害者美代子の呻声を聞き、自動車の運転操作に異常なものを知覚し、更にその頃、夫守一が左側扉に掴つて「停めろ停めろ」と再三停車を命じていたのであるから、被害者美代子が車体の下に引掛つているかも知れないと認識したことは充分これを認めることができる。

二、そして右の状態のまま時速約三〇粁で道路上を引摺れば或は被害者美代子が死亡するかも知れないということは通常の経験に照らして充分予見し得るところであり、敢えて時速約三〇粁に加速して三〇〇米もの間そのまま進行した行為は、死の結果に対する認容の心理的態度を窺うに充分である。又被害者美代子が死亡するかも知れないという結果に対する予見、ならびに自己が現場から逃走するためにはその結果死亡することがあつても止むを得ないという結果の認容については、被告人の司法警察員に対する昭和三六年一一月一九日附、同月二一日附各供述調書、検察官事務取扱副検事に対する同月二四日附、同月三〇日附各供述調書中の供述記載によつても明らかなところである。

以上の次第で前記認定犯罪事実のとおり被告人は被害者美代子に対して所謂未必的な殺意を有していたものと認めるのが至当である。

(長部重明に対する殺人罪の成否)

一、被告人は終始一貫して被害者重明に対する認識はなかつた旨供述しており、その他被告人が本件犯行時被害者重明の存在を認識していたと認めるに足りる証拠はない。本件衝突時は小雨模様の天候で、しかも午後九時頃であつて、衝突地点における照度は約一・二ルツクス(司法警察員作成の検証調書添付交通量ならびに照度調査表)、被告人が被害者美代子を発見した地点から衝突地点までの距離は約五ないし六米、当時の自動車の速度は時速約二五ないし三〇粁、被害者重明は被害者美代子に背負われねんねこを着用していたこと等客観的条件から考えても、被告人が被害者重明を識別することは殆んど不可能に近い状況であつたと推認される。

そこで、被告人が本件犯行時に指向した意識内容は被害者美代子のみに対する未必的な殺害ということであつたにも拘らず、現実に発生したものは被害者美代子及び重明の死という事実であつて、結果として発生した事実と被告人の表象していた内容とが一致せず、その間に錯誤が生じており、右は講学上所謂事実の錯誤に属する場合である。

尤も、被害者美代子に対する関係だけを切離して考えるとその間に錯誤はなかつたわけであるから、講学上所謂典型的な客体の錯誤ないし打撃の錯誤ではなく、被告人の予期した客体と同時に予期しなかつた客体にも結果が発生した場合として、言わば客体の数に関する錯誤とも言うべきものである。

而して、同一の構成要件的評価を受ける事実を表象している以上、その範囲内で具体的な事実についての錯誤があつても犯意を阻却するものではなく、客体の数に関する錯誤においては単に構成要件的評価の回数に差異が現われるだけで、犯意の内容として重要な意味を持つ規範的評価は同一構成要件の範囲内である限り変りはないものと考えられる。従つて、「人ヲ殺害スル意思ヲ以テ之ニ暴行ヲ加ヘ因テ人ヲ殺害シタル結果ヲ惹起シタル以上ハ縦令其ノ殺害ノ結果カ犯人ニ於テ毫モ意識セサリシ客体ノ上ニ生シタルトキト雖暴行ト殺害トノ間ニ因果ノ関係存スルコト明白ナル以上犯人ニ於テ殺人既遂ノ罪責ヲ負フヘキコト勿論ニシテ過失致死罪ヲ以テ論スヘキニ非ス」(昭和八年八月三〇日大審院判決、大審院刑事判例集一二巻一、四四五頁)と言うべきであつて、被害者重明に対する殺人の犯意は阻却されないと解するのが相当である。

二、次に、本件犯行時被害者重明が悲鳴をあげていたと認めるに足る証拠は全くなく、第四回公判調書中証人山内峻呉の「一〇ないし二〇米の間引摺られた場合絶対に死ぬことはないということはできない」旨の供述部分があり、被告人が犯意を生じた地点は加速進行をはじめた直後頃、即ち衝突地点から約二〇米近く進行した地点と推測されるので、被告人が犯意を生じた時被害者重明は生存していたか否かの点について検討する。

医師山内峻呉作成の鑑定書(長部重明)には「頭部より顔面に亘る創傷が致命傷である。この部に本屍生前、鈍体が強烈に擦過的に作用したために生じたものであり左側頭部の軟部組織および骨欠損もこれに連続して引続き鈍体がこの部に擦過的に作用したために生じたものと認める。」との記載があることから被害者重明は衝突時に死亡したものでないことが明らかである。第二回公判調書中証人酒井信行の「女の人は自動車の下に俯せになつていた」旨の供述部分、司法警察員作成の昭和三六年一一月一九日附実況見分調書添付写真第八ないし第一一号、医師山内峻呉作成の鑑定書(長部美代子)に記載されている被害者美代子の傷害の部位等を総合すると、被害者美代子は左上半身をやや下に傾けて俯せになつた状態で引摺られたものであると認められ、被害者重明はこれに背負われた位置即ち被害者美代子の上位にあつたのであるから、被害者重明が頭部を地面に摺りはじめたのはやや時間が経過した後であると推認されること、第二回公判調書中証人酒井信行の「橋のたもとまで一〇〇米位被害者美代子の悲鳴が聞えた」旨の供述部分、日戸平太の司法警察員に対する供述調書中、被害者重明について「母親より体温が暖かく死亡直後であると思われた。母親は子供よりも少し冷たかつた。」旨の供述記載等を総合すると、被害者重明の死亡時期は被害者美代子の死亡時期よりも後であり、従つて被告人が犯意を生じた時は勿論、その後かなりの時間生存していたものと認めるのが相当である。

以上の諸点を検討した上、前記認定犯罪事実のとおり被害者重明に対する殺人の所為を認めたわけである。

(法令の適用)

法律に照らすと、被告人の判示行為は刑法第一九九条に各該当するが、右は一個の行為にして二個の罪名に触れる場合であるから同法第五四条第一項前段第一〇条により犯情の重いと認められる長部美代子に対する殺人の罪の刑に従い、所定刑中有期懲役刑を選択し、右刑期範囲内で処断すべきところ、その犯情をみるに、本件は被告人が交通法規を無視したことに端を発し、唯自己本位の考えから逃走しようと企て、加えて被害者の生命の危険を意に介することなく進行し、その結果二個の生命を奪うにいたつたもので、これに対する被告人の責任は極めて重大であるといわなければならない。しかしながら、客体に対する認識及び結果に対する認識共に未必的であり、確定的な犯意をもつての殺害行為ではなく、又結果として実体的に二個の殺人罪が成立しているが、被害者重明に対する認識は全くなかつたものである。本件の動機は唯一途に事故現場から逃走しようとしたことにあり、右は倫理的に非難に価するが、通常の殺人罪にみられるような嫌悪すべき非道な動機とまでは言えない。又本件の発端となつた衝突時の被害者の行動をみるに、夜間であつて交通量が少なかつたとはいえ、横断歩道を渡らすに、しかも国道十字路の車道の中心部を歩行していたのであり、被害者にも歩行者として重大な落度があつたと認められる。被告人は既に精神的、経済的にかなりの社会的制裁を受け、又被害者の遺族との間に示談も一応成立している。

而して、近時所謂交通事故の激増は社会的な問題として世人の注視を集めている折柄、本件が結果において凄惨を極めたためその社会的反響は大なるものがあつたと認められる。しかしながら、激増する交通犯罪に対して徒らに厳刑をもつてのぞみ、刑罰の一般予防的機能を必要以上に強調することは、罪刑均衡の原則に照らして厳に慎まなければならないところである。従つて、所謂交通殺人の故のみをもつて、特に重く量刑処断することはできないのであり、殺人罪である以上、殺人罪として適正に量刑処断されなければならないことは論をまたない。

その他諸般の情状を勘案し、前記刑期範囲内で被告人を懲役五年に処し、刑法第二一条により未決勾留日数中六〇日を右刑に算入し、訴訟費用は刑事訴訟法第一八一条第一項本文を適用して全部被告人の負担とする。

よつて主文のとおり判決する。

(裁判官 豊島正己 坪谷雄平 石田実秀)

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